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私たちの持てる小さなものを主の手に委ねる

by Jasmin Ng

リリー・ヨン牧師によるデボーション

世界的な新型コロナウィルスの大流行により、世界は激動の時を通っており、生活の多くに影響が及んでいます。しかしながら、キリストを信じる者としては、自分と向き合う時でもあります。「揺るぎない神の御国の上に自分の人生を築いているだろうか」と。

教会として、神の御国のシリーズの教えを学んできましたが、私の心に深く触れたのは、神の御国が貧しい人、必要を抱えている人にどのように関わっているかということです。

マタイ25:40
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。

この聖句は、私がミニストリーを行う上で、軸となる聖句です。確かに、福音はすべての人のものですが、特に「最も小さい者」、つまり恵まれない人々や社会から疎外された人々のものなのです。

「特別なニーズを持つ子どもは、特別な人間となるためにあなたを感化する!」または、「他の人のニーズは、私たちを特別な人に変えるために影響を与える!」です。

JAMs(Jesus for All Minds/すべての人の心にイエス様を)の礼拝は、25年前にCWW(Church Without Walls/壁のない教会 )の活動として始まりました。教会の建物の四方の壁を越えて神様の愛を届けようというのが、コン先生とサン先生、リーダーシップによるビジョンでした。私が初めてフルタイムのミニストリーに携わり始めた時、多くの願いと同時に多くの不安がありました。まさか自分が、神様の心に非常に近いであろう特別な必要を抱えた人たちのミニストリーに携わることになろうとは、想像もしていませんでした!

この旅路で私を大きく励ましてくれた聖書の一節は、みなさんがよくご存知の「5000人を養う」という話しです。

ヨハネ6:4-9
ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。イエスは目を上げて大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

イエスが5000人を養ったという話しを読むたびに、私は5つのパンと2匹の魚を持って来た少年に共感してしまいます。この話しのように、私たちの中には、計算をして、「こんなことは不可能だ 」と言う「ピリポ 」のような人がいるでしょう。また、頑張ってリソースを集めようとしても当然結論が出ず、「私たち人間の力/能力で、こんなに大きなニーズに応えることができるのだろうか?」と言う「アンデレ」のような人もいます。

個人的には、この25年間、この働きに携わってきて、時折、圧倒されるような気持ちになることがありました。私がこのミニストリーに足を踏み入れたのは、特別なニーズを持つ人々を助ける才能や油注ぎがあると感じたからではありません。私はただ若者のセルグループを率いるリーダーでしたが、自分の持っているものをすべて用いて神様に仕えたいという情熱を持っていました。私は、「神様が私を遣わされる限り、この召しに応え、特別なニーズを持つ人々を助けます」と言ったことを覚えています。

当初、私はセルグループのコーディネーターとして雇われたのですが、神様の道と思いは私のものよりも高く、最終的にこのミニストリーの責任者となりました。そして気が付くと、25年間、仕え続けています。私が捧げた祈りは、この「名もなき」少年と同じです。毎日、「私の持っているものは何でも捧げますから、あなたの栄光のためにそれを何倍にもしてください 」と神様に祈っています。

私たちの多くは、この少年ととても似ていると思います。周囲を見ると膨大な必要があり、最善を尽くして助けたいと思います。「必要に応えることが召しである」と知っているからです。ですが、同時に、心の中では、自分にはないものに見て、無力だと感じてしまいます。「私は訓練を受けていない」「私には才能がない」と言い訳をしてしまいます。ですが、この解決策は少年の答えの中にあります。上を見上げ、自分の持っているものを主に捧げることを決心したときにだけ、必要に応えるという役割を神様に委ねることができるのです。

5つのパンと2匹の魚を持った少年は、リスクを冒すことをいといませんでした。お弁当を諦め、お腹を空かせて、でも召しに応えようとしたのです。信仰とはそういうものではないでしょうか。私たちが直面すべき問いは、「主のために愚かになるリスクを冒してまで、従順に信仰の一歩を踏み出すことができるだろうか 」という問いなのです。

この少年が多くの人の目には取るに足らないものを捧げたように、私たちが持っているわずかなものも、主の手によるならば多くのものとなるのです。神様の手が置かれたとき、モーセの羊飼いのつえは紅海を分け、解放をもたらします。サムソンの手にあるロバの骨は、敵を倒すことができます。やもめの最後の食事は、預言者を3年半養うことができるのです。

世界的な大流行で、世界に多くのニーズがあるこの困難な時に、あなたは喜んで自分の小さなものをイエス様の手に委ねますか?そして、委ねたものを主が増し加え、そこにあるすべてのニーズを満たしていただくのです。私たちは皆、他の人々の人生に変化をもたらすことができる特別な存在になれると、私は心から信じています。

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