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約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。

by Jasmin Ng

クォー・ロンによる デボーション

Photo by Tobi from Pexels

アモス3:3
約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。

アモス3章3節を読んだとき、私はある啓示を受け取りました。その啓示とは、自分自身を吟味するちょうど良いタイミングとなりました。私はよく、主と共に歩めるよう導いてくださいと祈りながらも、主と「心を一つ」にするべきことをおろそかにしていることに気づかされたのです。私たちは、神との旅路の中で、自動的に神と心を一つにすることができると思ってしまうことがあります。ですが、それは間違いです。

この箇所の原文では、「同意なしに、二人が一緒に歩けるだろうか?」とあります。昔、通行人の少ない人里離れた山間部では、二人が一緒に歩く場合、事前に取り決めがあったのです。

私たちが初めてイエスを心にお迎えした時のことを思い出してください。私たちの多くは、非常に積極的で、情熱にあふれ、主を求め、主とともに歩むことに心を込めて献身しました。ですが、時が経つにつれて、人生の必要、問題、プレッシャー、試み、痛み、忙しさなどのために、私たちの心はどこか遠く離れてしまい、主と「心を一つにしなくなった」のです。私たちは、自分の人生に対する神の御心を無視し、自分でコントロールするようになってしまいました。無意識のうちに、神の心の内にあることではなく、自分の望むことを神にして欲しいとさえ思ってしまっているのです。これは最終的に、神との関係や神に対する考え方に影響を及ぼします。

結婚生活においても、二人の心が一つでないなら、共に歩むことができずに結婚生活は破綻してしまうでしょう。組織においても、上司と従業員が心を一つにしていなければ、一緒に仕事を続けることは難しいでしょう。家庭でも、親と子が心を一つにできないなら、家族関係はぎくしゃくしてしまいます。ですから、誰かと一緒に歩みたいと思うなら、まず相手と心と思いを一つにしなければなりません。これは、神との歩みでも同じです。神と共に歩む過程において、私たちは共通の視点を持ち、望み、求める思い、理解、そして心を込めて取り組まなければならないのです。この聖句は、私たちが神に心と思いを集中させ、神の心と思いを知るなら、神がキリストにあって私たちのために用意してくださった人生を生きることができるという、時宜にかなったみ言葉であると言えるのではないでしょうか。

私たちは、アモス書が書かれた背景を理解する必要があります。北と南に分かれた後、北の国はヤハウェなる神を金の子牛に置き換えてしまい、さらには偶像崇拝を広めてしまいました。やがてヤハウェなる神は多くの偶像の一つとして拝まれるようになり、唯一の神ではなくなりました。ヤハウェなる神を礼拝する目的は、祝福や個人的な利益を得るための手段となってしまったのです。この文脈から、アモス3:3が何を意味しているかが理解できます。イスラエルの民はもはや神と心を一つにせず、聖書が私たちに警告している罪を犯していることが分かります。その警告とは、どのようなものでしょうか?

まず、私たちは罪に対して鈍感であってはいけません。

アモス4:6-11には、「あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」が5回繰り返されています。4章には、神が7つの災いを用いて人々を懲らしめられたことが書かれています。その目的は、民をご自分のもとに立ち返らせるためだったのです。ここでは、神の終わりのない愛は、人間の頑固さや不従順さとは全く対照的です。ですが、民は変わらず、繰り返し戒められても目を覚まさなかったのです。

第二に、自分だけが正しいと思ってはいけないということです。

アモス4:4-5によると、人々は自分たちの好きなことを好きなようにやっていました。律法では、彼らは年に3度だけ神と会い(申命記16:16)、地の産物の10分の1を神に捧げればよいと定められています(レビ27:30)。しかし、彼らは毎日いけにえを捧げ、3日ごとに什分の一を捧げました。彼らは律法の定めた以上のことを行い、律法の要求以上のことを行ったのです。彼らは他の人々に自分たちの行いを良いものとして公言し、自分たちは主とともにしっかりと歩んでいると考えていたのです。ですが、神と心を一つにするということは、自ら進んで神に従い、完全に神に献身するということなのです。イスラエルの民は、自分たちの心が神だけではなく、多くの偶像に捕らえられていたため、神が彼らのすべての行いを喜ばれていないという事実に気が付かなかったのです。

最後に、私たちは神の国、神の民、神のみ言葉を一切熟考せず、勝手気ままに行動してはならないのです。

アモス書1章から2章8節まで、「三つの背き、四つの背き」という言葉が8回出てきます。そのうち6回は民族の裁きに関わるものであり、2回は南と北の王国に関する罪でした。国や人々が何世紀にもわたって何度も何度も罪を犯したにもかかわらず、ヤハウェなる神は彼らに対する愛と彼らとの契約のゆえに、彼らをすぐに罰することはなさいませんでした。この数百年にわたる神の忍耐と憐れみの間、神は預言者たちを起こし続け、人々が神のみ言葉を聞いてヤハウェなる神に立ち返るようにと望んでおられるのです。ですが、民は神と神の命令を心に留めませんでした。ついに神は介入し、裁きをもたらされました。

しかし、神が裁きと懲らしめについて語られるとき、神はその裁きの理由を説明されました。裁きにおいて、神は常に希望と逃れる道を与えられます。アモス5章は、神から与えられた脱出の道について書かれています。4節と6節では、「主を求めて生きよ」(5:4、6)と書かれています。14節では、私たちがどのような生き方をすべきかが書かれています。「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き」とあります。聖書は、自分が親切にされたいときにこそ、他の人に親切に行動するようにと思い起こさせます。私たちの間で主のみこころが現わされることを願うとき、私たちは互いに親切に接することができるのです。

神は、私たちに喜んでみ言葉を与えてくださいました。私たちは今、神のみ言葉を理解し、み言葉に従って自分自身を吟味したいと願うことが必要です。そして、全身全霊で神に応えるのです。神の計画は、神の御国を再建し、回復することです。神ご自身とみこころの一部となるためには、私たちは神の心を知り、神と心を一つにする必要があります。

もう一度、神に目を向け、私たちの心を主に明け渡すのです。主が介入してくださり、み言葉を用いて、すべてのことにおいて常に神の心を考え、キリストにあって神と互いに歩む人生を歩む方法を教えてくださいますように。

2022年、私たちが更に主を証しし、主を体験できるように、神が私たちを素晴らしい計画へと導いてくださる年になりますように!アーメン!

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