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予想外の出来事

by Evan

イアン・チョンによるデボーション

Glitch (誤作動・突然の故障) には、英語のオックスフォード辞典によると、「突然の、たいてい一時的な機器の誤動作や故障」という意味があります。

予想外の出来事というテーマは、私自身が日々の戦いを通して、ますますキリストに似た者に変えられていくという体験から分かち合うことに決めました。私が直面するあらゆる状況は、私の内にキリストに似た者としての品性を作り、御霊の実を結ぶためにあるのだと認めることは、非常に役に立ちます

皆さん、キリストを自分自身の主、救い主として心に受け入れてから、私たちはすぐに、主との歩みは救いだけでは終わらないことに気付きます。私たちは、ますますキリストに似た者へと変えていただくために聖霊に委ねなければいけません。

その過程で、古い自分が現われたり、怒りの感情が出たり、愛することが難しくなったり、といった計画通りにいかないことが起きます。計画の狂いは、主との歩みをおろそかにしたり、忙しさに心を奪われたときに起こります。時には、前向きなことでさえ、私たちの注意をそらす計画の狂いに繋がってしまいます。例えば、誰もが望むようなプロジェクトに時間を取られてしまい、主を求める時間がなくなってしまうというようなことがあるからです。すべてのクリスチャンに対する神の御心は、肉に従うことではなく、主ご自身の息子、娘として御霊に導かれることです。

私たちは、自分の品性 が一生かけて磨かれていくことにすぐに気がつきます。マタイ5:48は、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言っています。ですが、私たちは時々、天の父のように完全にされるための旅路で起こるすべての予想外の出来事に落胆してしまうことがあります。私たちが落胆に直面しても、決してあきらめずに神様の力と恵みにより頼み、歩み続けることができるように願います。予想外の出来事は、悪いことばかりではありません。私たちは、予想外の出来事が、より深い神の愛の現れをもたらし、キリストとの歩みにおいて真に圧倒的勝利者であることを知ることができるからです。

完全に回心するということは、神が私たちを古い生活からキリストにある新しい人生に導き入れるということです。私たちはこの変革を受け入れ、主に委ねた新しい人生において、古い自分を拠り所にしてはいけないのです。私たちの体は今や神の宮となり、私たちの行動は神の手と足を具体的に現すものとなるべきなのです。そのために、私たちはこの肉体を持っており、いや応なく予定外の出来事が起きるのです。予定外の出来事が起きたときは、主の目的に目を向け、主の導きにますます委ねなければなりません 。

へブル13:5に、神が決して離れず、見捨てないという保証が既に私たちに与えられています。だからこそ、私たちは自分の古い性質である肉が暴れるたびに、罪悪感や自己憐憫に浸る必要はないのです。むしろ、もっと深く掘り下げ、私たちを聖めより強くされ、神との一致と愛によって聖化されるのです。

私たちは、予定外の出来事が起きても動揺することなく、むしろその予定外の出来事を足掛かりとして、神の揺るぎない愛に感謝し、より深い交わりもつのです。そのための2つの具体的な方法を分かち合いたいと思います。

1) 神の臨在の中でひとりになる

ひとりになるとは、社交嫌いを理由に黙り込んで引きこもるということではありません。ひとりきりで、神と交わり、神の臨在にとどまり、スケジュール通りではなく、ただひとり、神と共にいるための場所をささげるということです。

私は早起きで、特にコロナが始まってからは、毎朝、主と共にひとり静まる時間を持つことを習慣にしています。この時間を通して、自分の必要のために神の御前に出るのではなく、ただ神と一緒の時間を過ごすということの大切さを理解し始めました。「神を知ろうとする者は、神のために時間を割かなければならない」とA.W. トーザーが言っているようにです

神とのひとり静まる時間は、考えたり、話したり、求めたりするだけでなく、最も大切なことはは、「聞く」ことです。ひとり静まる時間は、私たちを神を愛する方と呼び、私たちの冒険の次のページへと導いてくださる神のみ声を聞くことができる時間なのです。

2) 助け手なる聖霊

私たちにはすでに最高の教師、導き手、助け手が与えれれているということを、すべてのクリスチャンがどれほど強調しても足りないことでしょう。私たちが永遠に足を踏み入れる前のこの世での旅路は、聖霊があらゆる人生の浮き沈みを通して私たちを備えさせ、聖霊の導きによって、沈みこむのではなく、上へと昇っていくのです。

最も慰めになる御言葉の一つは、

ヨハネ16:7(新共同訳)– 「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」

イエスご自身が「ご自分が去っていくことは良いことだ!」と言われました。なぜでしょう?なぜなら、私たちの弁護者である聖霊が私たちの内にとどまり、私たちを助け、導いてくださるからです。

1ヨハネ2:27 – しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油がすべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。

聖霊は私たちの中にとどまってくださり、落胆しがちなあらゆる予想外の出来事が起きても、私たちの成長のために教えてくださるのです。私たちがいかに弱く不完全であるかを嘆くときにこそ、希望を失うのではなく、私たちの持つ希望は失望することがないということを特に意識する必要があるのです。私たちの持つ希望とは、愛に満ちた神がいてくださることであり、そのお方と旅路を続けること、神の慈愛をこの世に示す器となるために、常に励ましてくださるのです。

私たちは宗教にのめり込む者としてではなく、私たちが不完全であるにもかかわらず、私たちを強くしてくださるキリストによってすべてのことができるということを示す器として、この世は私たちを必要としています。この上ない喜びは、キリストのうちに目が開かれ、不具合があってもすべての御霊の実を育めることです。

私たちが永遠の時を迎えるまで、疲れることなく、よりキリストに似た者と変えられるための旅路を続けてください。私たちが日々、主の中でひとりで静まるときを持ち続け、常に聖霊により頼むことができますように。

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